2011年1月23日日曜日
蘇州夜曲・・・ ― 胡 美 芳 ―
子供の頃どこかで聞いたうすい記憶・・・
コビホウ・・・
多分父から・・・
父が好きだった歌に蘇州夜曲がありました・・・
いろんな人が唄っていた蘇州夜曲・・・
私は李香蘭さんが好きで今でもよく聴いています・・・
胡美芳さんという方はその存在すら知りませんでした・・・
こんなに素晴らしい歌い手さんがいたんですね・・・
昭和のはじめ・・・
ここであのうすい記憶の・・・
コビホウに出会えるなんて・・・
ああこの世は神秘に満ちているわ・・・
2010年9月30日木曜日
伊藤久男・・・ ( 忘れ得ぬ人・・・
音が大きいです。 お気をつけくださいね。
伊藤久男さんと言えば
「イヨマンテの夜」・・・
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhf74HAxSVXGUql1NS8I72b-saBIxsIx3H5ps9C_eft7Nv_rqemiGz9mix2095zbOxbOJAiRC85-03e_QPNc6pQSUSJOA5UkxD2U-7GoMbj_PGbD0WyvFlnHbYJJaDDUcuqwJSnfZYgCVo/s400/250px-%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%B9%85%E7%94%B7.jpg)
wikipediaより
父たちの世代よりはずい分年上の方のようですが
10代の半ばから横浜で暮らしていた父は
S兄さんと慕っていた先輩やその仲間の人たちと
繁華街に遊びに行ってはよくいろんな歌謡曲を聴いていたそうです。
それはちょうど太平洋戦争真っ只中のこと
当時のことですから音源は蓄音機とラジオだけ。
その頃の伊藤久男さんは
その圧倒的な声量と歌のうまさで起用され
戦時歌謡といわれる歌をたくさん唄っていたのだそうです。
父の父親の影響もあって軍歌は許せなかった父でしたが
この伊藤久男さんの素晴らしい歌声には逆らえなかったようで
私たちが子供の頃にしょっちゅう「イヨマンテの夜」を口ずさんでいました。
戦意を高揚させる歌を軍歌というのでしょうから
この迫力ある伊藤久男さんのお声は
時代にマッチして軍歌にぴったりだったのでしょう。
天才ゆえの苦悩・・・
敗戦後、伊藤久男さんは戦時歌謡を多く唄った責任を感じて
疎開先に引きこもりお酒に溺れるようになったといいます。
再起不能と言われたものの周りはその才能を放っておかず
昭和22年映画の主題歌でカムバックし
その後、次々とヒットを飛ばして多くの名曲を残されたということです。
私が聴いたことがあったのは
この 「イヨマンテの夜」 と
軍歌そのものの 「暁に祈る」 だけだと思っていたのですが
今回いろいろ聴いてみて名曲といわれる素晴らしい歌を
たくさん遺していらっしゃることを知りました。
まさかあの 「あざみの歌」 が伊藤久男さんの歌だったとは・・・
天才ってこういう方のことをいうんでしょうね。
あれほど意気揚々と軍歌を歌いあげた人が
抒情歌をこれほどまでに唄っていらっしゃるなんて・・・
いろいろ聴いた中で私は冒頭の 「忘れ得ぬ人」 が一番好きでした。
こんな素晴らしい歌い手さんがいたことを
私より後の世代の方に伝えたい・・・
決して軍歌を肯定するのではありませんが
才能の素晴らしさとそのこととは問題は別だと私は思っていますから・・・
2010年8月1日日曜日
だから言ったじゃないの - 松山恵子 -
「うまいなぁ ほんとにうまいなぁ・・ 松山恵子は・・・」
おばちゃんはこの歌が大好きだった。
この歌というより松山恵子さんが好きだったのだと思う。
あんた泣いてんのね・・・
だから言ったじゃないの・・・
この唄をいつ頃どこで聴いていたのか
ほとんど記憶がないのだけれど
いつかしら私も
この人は日本一歌のうまい歌手なのかも知れない
と思うようになっていました。
何十年かぶりに聴いてみて
ああやっぱり凄い人だったんだなぁと
しみじみ聴き入ってしまいました。
息の長い歌い手さんだったんでしょうね。
何年かごとの映像が YOU-TUBE に挙げられていました。
どの時代も輝いていて素晴らしいのだけれど
私の記憶にあったのはまさにこの歌でした。
おばちゃんの声はもっと荒々しいんだけれど
歌のうまさでは全然負けていなかったと思う。
艶のある響きのあるそれは魅力的な声の人で
演歌でも民謡でも
それこそ軍歌でも唄いこなしてしまうような人だったおばちゃん。
そのおばちゃんを唸らせたなんて
5本の指に入っていたうちの一人だったんでしょうね。
松山恵子さん・・・
演歌が苦手でなかなか馴染めなかった若かった頃・・・
今ごろになって・・・
この年齢になって聴いてみると・・・
演歌ってなかなかいいものだったのねって・・・
おばちゃんに話しかけている私・・・
おばちゃんが亡くなってもう5年・・・
松山恵子さんもお亡くなりになられていたと知りました・・・
ご冥福を・・ とともに・・・
十分に歌い切りましたよね・・ と言わせていただきたい気持ちです・・・
2010年7月12日月曜日
なんて哀しい反戦の唄 - 戦 友 - 島津亜矢
「ねえさん、その唄はやめましょうや・・・」
「どうしてヤッちゃんはそういうことを言うだね・・・」
「軍歌はもうイヤだ・・・」
「唄に軍歌も民謡もないだよ・・・ いい唄はいいだよ・・・」
父と兄嫁さんのおばちゃんは大の仲良しで呑み友だち
二人とも大酒飲みで呑んではしょっちゅうぶつかっていた。
子供の私たちにはそれがケンカに見えていて
いつもハラハラしながら聞いていたのだけれど
おばちゃんが 『ヤッちゃん ヤッちゃん』 と言って
他の誰よりも父を可愛がっているのがよくわかってからは
母も私たちもそのうちそんなことも気にも留めなくなっていた。
男勝りで気風が良くて
そして歌唱力抜群のおばちゃんが唄うと
この唄のある部分はどうしても軍歌に聴こえてしまって
私もこれは軍歌だと思い込んでいた。
軍歌をどうしても受け入れられなかった父だから
父もその時はきっとそう思って聴いていたのだろうと思う。
後年になってから父とそんな話をしたことがあった。
「この唄は軍歌じゃないわよね・・・ 反戦歌よね・・・」
「そうだなぁ・・・ 唄う人の気持ちによるなぁ・・・」
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島津亜矢さんという歌い手さんの歌を今回はじめて聴きました。
お名前だけはどこかで聞いていたけれど
こういう歌を唄っている方とは知りませんでした。
すばらしい歌い手さんがいたんですね・・・
お若い方なのに心で歌を唄っている・・・
なんて哀しい反戦の唄だったのでしょう・・・ 戦友・・・
はじめて最後まで通して聴いてみました・・・ じっくりと・・・
まだどこかに戦争を賛美する人がいるのなら・・・
世界のあらゆる国でこの歌を流したらいい・・・
声高に反戦を叫ぶより・・・
この一曲の方がはるかに胸に響きます・・・
(プチプチ途切れますが・・ それでも最後まで聴いてみてほしいです・・・)
お酒呑むな~ 酒呑むなの~ ご意見なれ~どーーー ヨイヨイ^^ - ヤットン節 -
貧しくても・・・
貧しくても・・・
お酒はどこかから回って来るものなのね^^
真っ直ぐでキッチリ筋を通したい性格の父だったけれど
根は明るくて楽天的なお人好し
仲良しの親戚のおじちゃんやおばちゃんと
議論を闘わせながらよくお酒を飲んでいた。
若いころは一升酒なんか当たり前で
母や私たちはハラハラしていたものだった。
まわりの心配をよそに
おじちゃんやおばちゃんと夜が更けるまで飲んでいた。
どっちを向いても山また山
苦情なんか言う人もいないんだもの
誰に遠慮もなかったのよね。
酔いがまわって唄が出る・・・
最後はいつも民謡か・・・ こんな楽しい唄・・・
か・な・ら・ず・・・ 出たのは・・・ この唄・・・
♪ ~~~ トコねえさん 酒もってこい^^
そんな時の父は本当に楽しそうだったっけ・・・
山にいた時の父は
若かったこともあったけれど
元気いっぱいでまわりの誰よりも溌溂としていた。
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あんなにしょっちゅう聴いていたのに
この唄が何という唄だったのか私は全然知らなくて
今回あっちこっち検索してようやく見つけることができたの。
久保幸江さんという歌い手さんも
名前も聞いたことがなかったけれど
うう~~ん・・・ 艶やかな明るいお声・・・ とっても素敵な方なんですね^^
なんておおらかな時代だったんでしょうね・・・
父の一番いい時代でもあった・・・ と・・・ 思って・・・ 胸がじわっとしてしまいます・・・
2010年7月8日木曜日
サファイア色のまなざしが・・・ 春日八郎 - 長崎の女 -
父がとても好きだった歌・・・
春日八郎さんは父より少し年上の方で・・・
この歌は父が30代後半の頃にヒットしていた歌・・・
私もラジオから流れるこの歌に・・・
まだ見たことのないロマンチックな町・・・
遠い長崎を思い浮かべていたっけ・・・
思い返してみると・・・
悩んだ末に父が離農を決意したちょうどその頃の歌だった・・・
私の子供のころの想い出につながる歌は・・・
ほとんどが父の好きだった歌・・・
この頃そんな歌ばかりが思い出される・・・
ほんとに年をとったんだね あたし・・・
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しばらくそんな歌を拾い集めてみようかな・・・
今月は父の亡くなった月・・・
もうすぐ祥月命日・・・
2010年6月17日木曜日
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